『八重の桜』便乗スペシャル 新島襄の京都(4) |
様々な妨害を受けながらなんとか開校した同志社英学校だが、当初の生徒はわずか8人、ちゃんとした時間割さえない、頼りない船出だった。
その状況を一変させ、同志社を学校として一段高いところへ上げることになったのが、有名な「熊本バンド」だった。
彼らはL.L.ジェーンズの開いた熊本洋学校(授業はすべて英語、成績不振者は遠慮なく落第という厳しい学校だった)で学んだ精鋭たちで、洋学校廃校に伴い、同志社がその受け皿になったというわけだ。
学問レベルの高い彼らは襄や教員デイヴィスに度々難解な質問を浴びせ、襄たちはかなり手を焼いたようだ。結構ナメられていたっぽい。
彼も当初は襄の運営法に批判的で(八重にも「鵺のような女」と悪態をついている)、結局学生騒動のごたごたで中途退学してしまう。
しかし蘇峰は離れてからも襄を敬愛(尊敬というより、敬愛のような気がする)し、『国民乃友』という日本初の総合雑誌を創刊して今を時めくジャーナリストになってからは、襄を支えるなくてはならない人となる。全国に流された「同志社大学設立の旨意」も蘇峰の筆だ。
プライベートでは、伝道旅行中に蕎麦の大食い比べをして遊んだり(かわいいね)しているように、二人の関係は子弟を越えた親密なものだった。
『八重の桜』でも、もっと全面に出て来ても良かったなあと思う。
ああでも、それだと八重の存在感薄まってしまうか…
襄は遺言にも「倜儻不羈(てきとうふき)なる書生を圧束せず、務めて基本性に従い、之を順導し、以て天下の人物を養成す可き事」という言葉を遺している。
さて。
今出川キャンパスの文化財めぐりのつづきだ。
これはハリス理化学館。重文。
総合的な学問を学べる場所を目指した同志社が、やっと実現したサイエンスの砦。現在の理工学部の前身だ。
館内では当時の貴重な資料を見たり、同志社の歴史について学べるようになっている。
こちらは1886年に建てられた同志社礼拝堂。
襄が「同志社の精神」と呼んだ重要な建物で、プロテスタントのレンガ造りのチャペルとしては日本に現存する最古のもの。どちらかが同志社卒業生などであれば、ここで結婚式を挙げることも可能(!)。
(新島襄の生涯 その6)
開校から年を経るごとに徐々に同志社は信頼を得るようになり、襄は次のステージ「同志社を大学に作り替える」という夢に向かって走り始める。
当初はキリスト教の伝道が英学校の第一の責務だったが、それだけでは優秀な学生を惹き付けることができないことを襄は痛感していた。むしろ、キリスト教を敬遠する学生が他の学校へと流れてしまうことも多かった。
襄は法学や文学、医学など総合的な学問の場所としての同志社を目指し、日本初の私立大学設立へと命を削りながら奔走する。
先述の徳富蘇峰の力強い協力もあり、のちの早稲田大学の創立者となる大隈重信や井上馨、睦奥宗光といった政界の実力者や、三菱の岩崎弥之助といった有力な財界人の支援を得ることに成功する。
当時誰も考えなかった「私立大学設立」という前代未聞の運動は、慶応義塾の福沢諭吉や仏教関係者も刺激し、時代の大きな流れを創り出す(蘇峰に宛てた手紙の中で襄は、このように大学設立が「一時の流行物のごとく」になったことに困惑している)。
しかし元々弱かった襄の身体は、この頃の激務(学校運営や大学設立運動に加え、教会合同運動という教会再編の動きにも襄は巻き込まれていた)によって、ぼろぼろに蝕まれていくのだった…
つづく
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