『八重の桜』便乗スペシャル 新島襄の京都(5) |
こちらは1884(明治17)年竣工の彰栄館。重文。
同志社の赤レンガでは最初のもので、京都市内に現存する最古のレンガ建築だ。昔は同志社中学校の敷地内だったけど、中学が岩倉に移転してからは大学の敷地に戻っている。
この明徳館は、地下に食堂や生協のショップがあり、学生は何かとお世話になる建物。
(新島襄の生涯 その7)
帝国大学のドイツ人医師・ベルツにより「回復は無理」と診断された襄は、親しい人たちに遺書を送り始める。
襄の身体を気遣い手紙を書かせようとしなかった八重に隠れて、襄は手紙を書き続けた。
養生すれば五年、十年は持ちこたえられるかも知れないと医師は言ったが、「ますます戦場に出向いて血みどろの戦いを試みる」決意の襄は、全校生徒に向かい「自分が倒れた場合は皆さんが我が志を継いでいただき、何代かかっても大学設立事業を完成していただきたい」と別れの挨拶をして、最後の関東出張へと旅立つ。
関東でも精力的に大学設立運動に邁進した襄だが、1889年11月28日、ついに前橋で発病し、東京に引き上げることになる。
12月、徳富蘇峰の勧めでより暖かい大磯に転地療養。
病床でも襄は在学生や卒業生、大学設立の支援者たちに手紙を書き続けた。
八重たちの立ち会いのもと、襄は蘇峰に遺言を口述筆記させる。
遺言の中身は今後の同志社、それも先述した「倜儻不羈(てきとうふき)なる書生を圧束せず…」に見られるように、生徒に対してのことが中心だった。襄は最後まで自分のことより、愛する人たちのことを思い続けた人だった。
こんなエピソードもある。
看病する八重が、ある時襄が息をしているか心配になって、手で寝息を確かめようとすると、襄がその手をとって「八重さん、私はまだ死にませんよ。安心して眠って下さい。あまり心配して眠らないと、私より八重さんが先に死んでしまうかも知れません。そうなったら私は大困りだから、安心して眠って下さい」と度々言ったという。
そして1890年1月23日、襄は八重の左手を枕に「狼狽するなかれ。グッバイ、また会わん…」と言い残して、46年の波乱の生涯を閉じる。
七条から自宅(こないだ紹介したあの新島旧邸です)まで、生徒が代わる代わる襄の棺を運び、27日には同志社のチャペル前で告別式が行われた。弔問には4千人もの人々が訪れたという。
式のあと、襄の棺は再び生徒たちによって、東山の若王子山頂まで運ばれた。
みぞれが降りしきる中、全校生徒は、蘇峰の依頼により勝海舟が書いた「彼らは世より取らんとす、我らは世に与えんと欲す」というのぼりをなびかせて、葬列に加わった。その長さは2kmを超えたという。
2011年に襄の墓参りをした時の写真があるので、載せておこう。
墓地まではこんな山道。みぞれの中、棺を担いで上がるのは大変だったと思う。
「墓標は一本の木で結構」という襄の言葉通り当初は木の墓標だったが、翌年石のお墓に建て替えられた。
墓標の文字は勝海舟によるもの。
近くに山本覚馬の墓もあるが、当時の僕は恥ずかしながら覚馬のことを知らなかったので、素通りしてしまった。次回は必ず手を合わせよう。
さて。
5回にわたって新島襄について触れて来たけれど、書くにあたって参考にさせてもらいまくった参考文献を載せておきます(これをやらないと教授からよくお叱りを受けました)。
・『新島襄と建学精神』本井康博 著 同志社大学出版部 2005年初版
(同志社大学生協で購入可。定価500円)
・『新島襄の手紙』同志社編 岩波文庫 2005年初版
これらの本を読むことで、初めて新島襄について一人の人間として立体的に捉えることができた。
彼は信念を貫き通した強い人間だったと思われることも多いけれど、実はとても弱い人間だったからこそ、そうした強い信念・信仰を持たずにはいられなかったのではないか、と思う。
彼は同時代の他の偉人(例えば勝海舟や福沢諭吉、あるいは散っていった幕末の志士たち)が持つような巨大なカリスマ性を持っていたわけではない。むしろ、初めの頃の熊本バンドに侮られていたように、どちらかと言えば頼りない人ではなかったか。
それでもどういうわけか、生涯にわたって「新島襄のために一肌脱ごう」という人々が、いつも彼のまわりにはいた。
密航に協力した船長、ボストンで襄を暖かく迎え入れたハーディー、襄にパスポートを出した森有礼、岩倉使節団の木戸孝允や田中不二麿、ラットランドで献金を申し出たアメリカ人たち、同志社英学校の最大の協力者となった山本覚馬、大学設立に支援の手を差し伸べた大隈重信などの政財界人、導き手の一人となった勝海舟、そして教え子の徳富蘇峰たち…
これはひとえに、新島襄が少しも私利私欲に走らず、月並みな言い方で言えば、真に「世のため、人のため」をまっすぐに思って生きたからではないだろうか。
そして、彼が生涯にわたってまわりの人たち、とりわけ「小さきものたち」に与えた愛、それも無視するわけにはいかない。
襄は授業料が払えない貧しい学生のために府知事にかけあって奨学金を得たり、退学していった学生のことも忘れず気にかけ、創立十周年の晴れの式典中にも「今頃彼らはどうしているだろうか」と涙ながらに式辞を読んだりもしている。
またこんなエピソードも残っている。
身長が120cmしかなく、生徒によくからかわれていた用務員の松本五平を、唯一襄だけが「五平さん」とさん付けで呼び、一人の人間として丁寧に扱った。
五平はそんな襄を深く敬愛し、襄の死後、八重に「私が死んだら、どうぞ新島先生の墓の門の外に埋めてください。死んだ後も新島先生の門番をしとうございます」と頼んだ。
五平の死後、八重は約束を守り、同志社墓地内の入り口に五平の墓を建てた。
それからずっと、松本五平は今も新島襄の墓守をしている。
新島襄の生涯をこうして振り返ると、襄が学生に向かって言ったこの言葉にも、深い愛が込められているのがわかる。
「諸君よ、人一人は大切なり」
おわり
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